時計好きの人は、例外なく時計製造の歴史について深く興味を示すものです。歴史は時計という分野の魅力の一つで、知っていくと不思議と自分の腕時計にも愛着が持てるようになります。

近代時計史の中で、最も大きな出来事といえばクォーツショックです。クォーツ時計の誕生とともに、機械式時計の在り方や、日本やスイスの時計産業が大きく変わっていくこととなりました。

ここでは、時計好きなら知っておくべき「クォーツショック」について紹介します。

クォーツショックとはなにか

クォーツショックは、日本の時計メーカー「セイコー」が1969年にクォーツ式腕時計を発売したことによって起きた時計製造の歴史に残る革命的な出来事です。文字通り「クォーツ革命」とも言われています。

何世紀も前の懐中時計の時代から、時計はずっと機械式のものが主流でした。電池によって駆動するクォーツ式が定着したのは、長い歴史を考えると比較的最近のことです。

セイコーによる世界初のクォーツウォッチ「アストロン」が発売された1969年当時、大卒初任給や公務員上級の給与は31000円でした。クォーツウォッチは最初から安価だったわけではなく、当時の定価は40万円を超える価格。

当時の大衆車だったカローラよりも高値でした。ところが、セイコーが特許を公開したことにより、低価格化が進んでいきます。

価格だけでなく、精度においてもクォーツ時計は機械式時計をはるかに凌駕していました。

それまでの時計業界はスイスの機械式時計がトップに君臨していましたが、安くて正確なクォーツ式時計が台頭したことにより徐々に下火になりました。逆に日本はデジタル表示の時計を製造するなど、クォーツの開発でどんどん時代を先取りしていきます。

さらにオイルショックによる生産コストアップやスイスフランの高騰などが追い打ちとなり、スイスの時計産業が低迷。IWCは倒産の危機に、老舗ブランドのブランパンも休眠状態に陥ります。

奇しくもセイコーのクォーツ時計と同じ1969年に、世界で初めてクロノグラフの自動巻きムーブメント「エル・プリメロ」を開発したゼニスも、財政難から機械式時計部門の売却を余儀なくされ、エル・プリメロの設計図を屋根裏部屋に画したというエピソードも有名です。

ゼンマイ駆動の自動巻や手巻時計よりも高精度で、子供でも買うことのできるような身近なクォーツ時計が市場を席巻するまでの流れがクォーツショックという出来事です。

クォーツウォッチ・アストロンとは

セイコーのアストロンは、世界で初めて実用化に成功したクォーツウォッチです。

クォーツ時計の開発自体は、世界各国のメーカーも行なっていました。意外にもクォーツムーブメントの原動力である水晶の振動を利用した時計の歴史は古く、1927年の段階でアメリカのマリソンが開発に成功しています。

ただし、この当時のクォーツ時計は部屋ひとつが埋まるほど巨大な装置でした。

1964年には、ヌシャテル天文台コンクールにてセイコーがクオーツ式の卓上クリスタルクロノメーターを出品。さらに1967年のニューシャテル天文台コンクールでは、セイコーの他にスイスのCEH社がクォーツ式腕時計の試作機を出品します。

製品化に向けて競争を繰り広げましたが、1969年の12月にタッチの差でセイコーがアストロンを発売しました。

翌1970年にはCEH社の時計メーカー・ラドーのほか、オメガやブローバといったブランドがアナログタイプのクォーツウォッチを発表しています。

スイス・アメリカの時計業界が震撼した理由(安くて時間も正確な時計がたくさん作れるようになり、機械式が下火など)

腕時計は、機構の振動数が高いほど高制動を追及するのに有利になります。一般的な機械式腕時計が毎秒5~10振動なのに対し、セイコーのアストロンは毎秒8192振動。その後、3万2768振動にまで高めました。

さらに、時には手作業も必要となる機械式時計と異なりクォーツは大量生産にも最適でした。安くて時間も正確な時計がたくさん作れるクォーツに、従来の機械式時計の生産スタイルは太刀打ちできませんでした。

アストロンのリリースから10年後の1979年には、日本が生産する6000万個のうち55%がクォーツ製に。翌1980年には、全体の時計生産数がスイスを抜き去り世界一位に躍り出ました。

日本から海外へ多くのクォーツ時計が輸出されたため、スイスやアメリカが大打撃を受けます。1974年ごろまではスイスの時計輸出量も好調を維持していましたが、80年代前半には半分までに激減しました。

アメリカでは、懐中時計で名を馳せたアメリカ最古の時計ブランドのウォルサムが日本の企業により買収。スイスでも1600社以上あったスイスの時計関連企業が、1980年代中頃には三分の一近くまで減少したと言われています。

スイスやアメリカの時計メーカーは伝統的な時計製造にこだわり、クォーツ時計の参入に遅れをとったことが、結果的に時計産業の縮小を招くこととなりました。

大衆向けとしてはロスコフウォッチと呼ばれるピンレバー脱進機を採用した腕時計が売れていましたが、精度に優れるクォーツ時計に取って代わられたのも大きな痛手でした。

スイス時計業界の1970年代~1980年代の主な動向

クォーツショックが起こした革命により、スイスの時計メーカーはそれまで培ってきた伝統的な機械式時計の製造に見切りをつけてクォーツ時計へとシフトするか、機械式時計のノウハウで新しい打開策を講じるかの岐路に立たされました。

スイス時計産業はクォーツ時計を製造しながらも、機械式時計の復権に向けて動き出します。

ここでは、スイス時計産業の1970年代~1980年代の主な動向について紹介します。

ブランパンの復活

1970年に9万人いたスイス時計産業の従事者ですが、わずか10数年後の1984年には3万人まで激減します。壊滅的とも言えるクォーツショックの危機から復活するために着目したのが、機械式時計の「工芸品としての価値」です。

「時間を知る」という時計本来の実用性においては、機械式時計はクォーツ時計に敵いません。

しかし、電池で動くクォーツ時計と異なり、機械式時計には古くからの人類の叡智や、機械ならではの美しさを備えています。

こうした機械式時計ならではの価値が、1980年代に入ると人々から見直されていきます。その声に応えるかのように、1983年には老舗ブランドのブランパンが息を吹き返しました。

ブランパンは、1735年に創業した現存する中で最古の時計ブランド。

クォーツショックによって休眠状態に陥っていたブランパンでしたが、ジャン・クロード・ビバー氏が立役者となって復活しました。

ジャン・クロード・ビバー氏は、のちにオメガやウブロも成功に導いたことで”時計界のスティーブ・ジョブズ”とも称される人物です。

復活したブランパンのコンセプトは、「機械式時計のみを作る」ということ。このブランパンの復活が、機械式時計の人気復活を象徴する一つのきっかけとなりました。

「独立時計師アカデミー」の発足

1985年には才能ある時計師たちによる新組織「独立時計師アカデミー」が発足します。

有名な時計メーカーから干渉を受けない国際的な組織として、アントワーヌ・プレジウソやフィリップ・デュフォーといった天才的な時計職人が所属。複雑機構を備えた数々の名作を世に送り出しました。

トゥールビヨンの開発

トゥールビヨンは、3大複雑機構の一つとも言われる機構です。懐中時計時代に備えられていた機構ですが、腕時計への実装は不可能とされていました。

ところが1986年、フランク・ミュラーやオーデマ・ピゲが腕時計初となるトゥールビヨンの作成に成功します。

トゥールビヨンは機械式腕時計の精度を向上させるだけでなく、その美しさから現在でも高級時計の仕様として重宝されています。

フランク・ミュラーはこの他にも数多くの機構を腕時計に搭載し、”ブレゲの再来”とまで言われました。

携帯の出現で腕時計の実用性が失われつつある

クォーツショックは1980年代中頃には落ち着きを見せたものの、2000年以降は携帯電話の出現によって再びその存在価値を問われています。

時間を知るのというだけの目的なら、もはや腕時計は必要ありません。しかし、機械式時計にはそれ以外の価値が宿っていることはクォーツショックを打開した時代にすでに証明されています。

趣味や自己表現の手段として、今でも多くに人が腕時計を愛用しています。

スティーブ・ジョブスはセイコー愛用

機械式時計だけでなく、クォーツ時計も独自のポジションを確立しています。

クォーツ時計の魅力は、製造コストの安さゆえにデザインにこだわれる点。そして、低価格ながら高い精度を実現している点です。

イッセイ・ミヤケのタートルネックセーターとブルーデニムのミニマルスタイルで有名なスティーブ・ジョブズも、クォーツ時計のファンでした。

セイコーシャリオ愛用者だったジョブズと同じく、クォーツ時計のファンも数多く存在します。

クォーツショックについてのまとめ

    • クォーツショックは、セイコーが発売したクォーツ時計がきっかけで起きた時計産業の革命。スイスの時計産業が壊滅的打撃を受けた一方で、世界中の多くの人が安価で時計を手にすることができるようになりました。
    • 1980年代には機械式時計の良さに再び注目が集まる。クォーツ時計との棲み分けがされるようになりました。
    • 現在ではスマホの台頭などで時計の実用性に関しての価値は失われがち。しかしファッションアイテムや、自己表現のアイテムとしてクォーツ時計や機械式時計の支持者は多いです。